元アスリートが語る スポーツの仕事「やる」から「つくる」へ- Vol.7–元プロ野球選手小野寺力さん~前編~

Spportunityコラム編集部

(出典:Sports Japan GATHER 2016年3月22日)
 

「もう一度ライオンズのユニフォームを着て仕事がしたい」


小野寺力さんは埼玉西部ライオンズの球団職員として働いている


~第7回目~
小野寺力(おのでら・ちから)さん/35歳
プロ野球選手→球団職員(埼玉西武ライオンズ)

取材・文/太田弘樹
 

肩の痛みと戦う日々が続く


中学生から野球を始め、高校、大学と白球を追い続けた小野寺力さん。野球で飯を食べていくことを決意したのは、兄・実さんの影響だったという。

「私が高校3年生の時に、兄が読売ジャイアンツに入団しました。それを見て自分もいけるんじゃないかと…負けたくないという気持ちも強かったんです。大学に入り、一生懸命4年間頑張ったらいけるっていう自信と、そういうふうに思わなかったらできないという思いがありました」

高校を卒業後、兄の後を追うように常磐大学に進学。主戦投手として活躍し、4年生になると春・秋の関甲新学生野球連盟で防御率リーグ1位の成績を残し、2002年のドラフト会議で西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)から4巡目で指名を受け、兄と同じくプロの道に入った。

入団1年目こそ怪我に泣いたが、2年目の04年からは中継ぎとして1軍で投げるようになる。武器は『直球』。188センチの長身から投げるボールは、最速154キロをマーク、それを軸にして戦った。06年にはFA(フリーエージェント)移籍した豊田清に代わる抑えとして起用され、7月までは防御率1点台をキープ、同月には初の月間MVPを受賞。同年はチーム最多の59試合に登板して防御率2.82、7勝29セーブを記録するなど西武ライオンズになくてはならない存在となった。

しかし、10年は不調のため開幕2軍からのスタート。1軍に上がっても中々調子が上がらないままシーズンを終えた。

「10年の終わりごろですかね、肩の状態が本当に悪くなっていました。それまでも、ずっと痛かったんですけど、なんとか頑張れる痛みだったんですよね。でも今までの肩の痛みとは違う、注射を打っても薬飲んだりしてもダメで…検査に行ったら手術しないといけないっていわれました。手術をしたら、次の1年間西武ライオンズの選手としていられるかも分からなかったので『しない』という決断をしました」

痛めた箇所は、関節唇。激痛で、腕も上がらない。1年で50試合程度投げなくてはいけないリリーフ・抑えという立場、体が悲鳴を上げた。

寝ていても寝返りを打つと痛みで目が覚める。肩の痛みと戦いながら、投げ続けた小野寺さん。11年には、開幕から一軍公式戦への登板機会がないまま5月に交換トレードでヤクルトスワローズへ移籍。しかし往年の直球は戻らず、12年10月に戦力外通告を受けた。
 

人生で一番悩んだ『野球を辞める』という決断

ケガで思うように投げられなくなったことが引退に繋がる


“クビ”と宣告されたその日、小野寺さんは前球団である西武ライオンズに連絡を入れた。そのことがきっかけで、現在の職に就いたという。

「ライオンズで約8年間お世話になりました。やはり、一言お世話になった当時の本部長の方に、連絡をいれなければと思いました。そして、会ったときに『球団職員にならないか?』という話をいただき、野球を続けるか、辞めるか本当に悩みましたね」

学生時代から一筋に続けてきた野球人生をここで終えることが果たして最良の選択なのか。人生において、答えを出すことが一番難しかったシーンだったと振り返る。

「眠ることができませんでしたね。今までも打たれたときなど悩みはありましたが、本当に重大な決断であったため、真の悩みってこういうことだと分かりました。『どうして野球を辞めなきゃいけないのか』『続けられるのか』自問自答しました。またMLB(メジャーリーグベースボール)でプレーしたいという希望も持っていましたが、この肩で挑戦するのは難しい、そして国内からオファーは来ていたんですけど、獲ってもらってもこの肩で何もできなかったら、チームに迷惑がかかる。メジャー、国内と両方で投げるのは無理だという考えに至りました。多分自分1人だったら手術をして、続けていたかもしれないですが、家族もいましたし、やっぱり自分の気持ちだけで行動するというのはできなかったんです」

25歳で結婚。家庭を持ち子供も2人。
「続けるなら応援する」という家族の声もあったが、考えに考え抜いて出した答えは『引退』だった。
 

お金の価値観を変えた大学時代のアルバイト



2013年1月から埼玉西武ライオンズの球団職員となった小野寺さん。1つの目標を持っていたからこそ、この職業に就くことに対して悩みはなかったという。

「ライオンズのユニフォームをもう一度着たいという強い思いがあったんです。辞める時はヤクルトのユニフォームだったけど、もう一度ライオンズのユニフォームを着たいという気持ちがあり、今もその思いを持っています」

職員になればユニフォームを着られるのではないか?そんな疑問を持ったが違った。コーチにならなければ袖を通せない。二軍用具担当として働き始めた小野寺さん。用具担当になるということで、一番初めに変えたことは生活環境だった。

「選手時代は外車を乗っていたんですが、売って国産車に変えましたね。やっぱり選手時代のままの感覚でいたらダメだと思ったんですよね。用具担当になって、外車に乗っていてもおかしくはないと思うんですけど…まず自分が変わらないと、変えていかなくてはと思った部分でしたね。また昔からお小遣い制だったんですけど、お小遣いの額は桁が1つ変わりました。だから、それなりの生活だと思いますよ。蓄えは多少ありますけど、それは子供や何かあった時のためと思えば使えないです」

輝かしい成績を残してきただけに、年俸もかなりの額をもらっていたに違いない。それが大幅に下がろうと、そこへの落胆はなかったという。

「苦労はしますけど、だからといって落ち込んだことは全くありませんね。大学時代に、居酒屋でもアルバイトをしていたことがあったんですが、1カ月一生懸命に働いたのに、3万円ぐらいしかもらえなかったことを今でも覚えています。その時に、親のありがたみをすごく感じました。お金をもらい生活して、自分たちを育ててくれた、その感謝があります。だから、お金を大事に貯めよう、貯めていかなきゃいけないだなっていうのは学生時代から感じていました」

プロに行く前に『働く』ことを経験できたからこそ、収入がいくら多くなってもお金に対しての価値観は変わらなかったと振り返った。

(プロフィール)
小野寺力/1980年11月26日生まれ、埼玉県熊谷市出身。
2002年 ドラフト4巡目で西武ライオンズに入団。ポジションは投手、長身から投げ下ろす最速154キロの直球とフォークボールを軸に力で押すピッチングスタイル。06年には、抑えとして起用され、7月まで防御率1点台を維持し、同月には初の月間MVPを受賞。同年はチーム最多の59試合に登板して防御率2.82、7勝29セーブを記録。11年に交換トレードでヤクルトスワローズに移籍。12年に怪我などの影響により、登板が減少。球団から戦力外通告を受けたことを機に、現役を引退。その後、西武球団に職員として復帰。埼玉西武ライオンズオフィシャルサイトhttp://www.seibulions.jp/ 

※データは2016年3月22日時点

記事提供:アスリートのための、応援メディア Sport Japan GATHER
https://sjgather.com/

(記事元:https://sjgather.com/magazine/201603221200/