山あり谷ありの19年、正田樹は今もまだ夢を追いかけている

広尾晃

2014年、愛媛マンダリンパイレーツの正田樹​
 

甲子園の優勝投手

 
正田樹は、高校時代から全国に名が通った左腕だった。
桐生第一高校の3年生の1999年、夏の甲子園に出場。1回戦で比叡山高校(滋賀県)を2-0で完封、2回戦は仙台育英高校(宮城県)を11-2(1年下の一場靖弘との継投)、3回戦は静岡高校(静岡県)に4-3でサヨナラ勝ち(救援登板)、準々決勝の桐蔭学園(神奈川県)戦は4-0の完封、準決勝の樟南高校(鹿児島県)戦も2-0で完封、そして決勝では岡山理大付(岡山県)を14-1で完投勝利。群馬県に初めて夏の優勝旗を持ち帰った。
前年夏の松坂大輔の大活躍をほうふつとさせる本格エースとして、その名を全国にとどろかせた。
この年のドラフトで、日本ハムファイターズに1位指名され、契約金9000万円、年俸840万円(いずれも推定)で入団した。
 
188cm、88㎏の恵まれた体格、150km/hを超す速球と、落差のあるカーブ、スライダーを駆使する投球は、本格派左腕の名にふさわしかった。
 
チームは1年目から正田を一軍で起用、2年間は荒っぽさが残り、一軍では成績が残せなかったが、新人王資格を保持した3年目の2002年、9勝11敗ながら5完投、2完封の成績で新人王に選ばれた。
この年の日本ハムは、5位に低迷。金村暁が10勝6敗、正田はそれに次ぐ二番目の勝ち星だった。
2004年、チームは北海道に移転、まだ21歳、正田の左腕には新生北海道日本ハムの未来がかかっていた。
しかしこの年のキャンプ中に左肩に痛みを覚える。高校以来の登板過多の影響か?ローテーションは維持したものの5勝15敗、防御率5.78と成績は急落。
球速が落ちた上に制球力も失った正田は以後、成績が低迷する。
2006年にはついに一軍で投げることができなくなる。二軍でも19試合6勝6敗防御率5.36と不振に終わった正田は、このオフに金澤健人とのトレードで阪神に移籍。
心機一転、再スタートを期したが、制球は定まらず、一軍の試合に登板できず。二軍でも2007年は0勝1敗防御率6.00、2008年は17試合0勝0敗4.00に終わり、オフに戦力外通告を受けた。
トライアウトを受けるも、他球団からのオファーはなし。正田樹の野球人生は26歳にして終わりを迎えるかと思われた。


正田樹が輝いた甲子園、高校野球の大舞台​

 

NPBから台湾、そしてMLBへの挑戦を経て再びNPBに

 
しかし正田はあきらめきれず、台湾に渡って興農ブルズの入団テストを受ける。ここから彼の数奇な野球人生の第二幕が開くのだ。
台湾球界は八百長事件に揺れていた。正田との契約もスムースではなかったが、台湾プロ野球のレベルでは正田の投球は傑出していた。
2009年は最多勝、最多奪三振に輝く。この年のオフには、ドミニカのウィンターリーグでも投げた。
翌2010年は勝ち星こそ11勝にとどまったが、防御率は向上し、チームの優勝に貢献した。
しかし財政難にあえぐ興農ブルズは、正田の働きに見合う年俸を支払うことができず、2010年限りで契約解除。
正田は一転、MLBを目指すことになり、翌2011年2月、ボストンレッドソックスのキャンプに招待選手として参加した。レッドソックスには1学年上の松坂大輔や岡島秀樹がいた。彼らとともにレッドソックスのユニフォームで、この年起こった東日本大震災のための募金活動も行った。しかし正田はMLBのオープン戦に出ることもなく3月29日に解雇された。
すでに30歳だったが、正田はなおも野球ができる環境を求め、この年4月、すでに開幕していたBCリーグの新潟アルビレックスBCに入団する。3年ぶりの日本でのプレーに戸惑いもあったか、当初は成績が上がらなかったが、後半戦には先発、救援で投げて3勝5敗1セーブ、防御率3.00を記録。新潟の後期優勝、地区優勝に貢献した。
正田の活躍は、NPBのスカウトの目に留まり、この年オフに東京ヤクルトスワローズへの入団が決まる。
実に4年ぶりのNPB復帰だった。


神宮球場でもプレーした

 

円熟の登板も2年で戦力外

 
かつての正田は先発をつとめる本格派だったが、NPBに復帰後の正田は中継ぎ投手になった。
2012年は、5月まで二軍暮らしだったが6月8日に一軍に昇格。神宮の交流戦、ロッテを相手に1イニングを三者凡退に仕留める。
当初は負け試合での登板が多かったが、次第にリードした局面でも起用され、24試合で0勝0敗3ホールド、防御率2.84と言う好成績をマークする。25.1回で被安打は31と多かったが、塁に走者を出しても粘りの投球で切り抜けた。
翌2013年も正田は好調で、開幕から中継ぎ投手として活躍。5月6日から10試合連続無失点を記録するなど、なくてはならない存在になるが、6月27日のDeNA戦で2失点し二軍落ち。
二軍ではまずまずの成績を上げるも、このオフに戦力外通告を受ける。左腕の調子が思わしくなかったのだ。
正田はこの年から始まった12球団合同トライアウトに参加するも、NPB球団からオファーはなかった。
そこで正田は再び台湾に渡り、2014年はLamigoモンキーズでプレーすることになった。
しかしまだ肩が本調子ではなかった正田は、シーズン序盤撃ち込まれることが多く、5月12日に解雇される。
すでに32歳、今度こそ引退かと思われたが。


台湾野球、桃園棒球場でもプレーした
 

四国から始まった新しい挑戦

 
2014年5月30日、正田樹は愛媛マンダリンパイレーツに入団を発表する。
ヤクルト時代の二軍コーチだった加藤博人が投手コーチに就任していて、正田を誘ってくれたのだ。
正田は四国アイランドリーグPlusでは、先発、救援で大活躍をした。
すでに球速は140km/hに満たなかった。はるかに速い球を投げる投手がたくさんいたが、打者に対する駆け引きや、緩急などでは、正田樹は他の投手の追随を許さなかった。
2014年は7勝2敗、防御率は1位の1.02。後期のMVPを獲得した。
おりしもこの時期、愛媛マンダリンパイレーツには、巨人、中日で活躍した河原純一がいた。
当時の指揮官だった弓岡敬二郎監督は
「若い選手には、河原や正田の投球をよく見るように言っている。自分たちとNPBで活躍した選手は何が違うのか。単なる球速ではなく、投球技術を持っているとはどういうことなのか、それを学んでほしい。若い選手には、彼らに積極的に質問するように言っている」
と語った。
2015年も正田樹は愛媛マンダリンパイレーツで投げた。投球術はさらに円熟味を増し、7勝3敗、防御率は驚異の0.74を記録。2年連続で防御率1位のタイトルを獲得。年間通してのMVPにも選ばれた。
このオフに正田は2007年、2013年に続いて3回目のトライアウトを受けるも、NPBからのオファーはなかった。
2016年、愛媛マンダリンパイレーツでの3年目のシーズン、正田はやはり7勝を挙げた。被安打が増加して防御率は下がったが、依然一線級の実力を有している。
この年のトライアウトには正田樹の姿はなかったが、彼はまだNPBへの復帰の夢を捨ててはいない。


2017年の正田樹​

 

分厚いキャリアSTATSは正田樹の勲章だ!

 
2017年、かつてともに投げた河原純一新監督が率いる愛媛マンダリンパイレーツのロースターにも正田樹の名前がある。35歳。チームでは断トツの最年長だが、彼は今季も現役投手としてマウンドに上がる。
 
正田樹のキャリアSTATS

 
 
 

アメリカなどでは珍しくないが、日本人でここまで分厚いキャリアSTATSを持つ選手は珍しい。NPB、ドミニカウィンターリーグ、台湾プロ野球(CPBL)、MLB、BCリーグ、そして四国アイランドリーグ。
彼は世界中で野球をしてきた。トップクラスのリーグから、地域のリーグまで。
それぞれのリーグで実績を残し、評価も得てきた。そして何度も戦力外の通告を受けてきた。それでもあきらめずにトライを続けてきた。
もちろん、彼は現役選手としてこれからも高みを目指すのだろうが、この経験は、現役生活を離れてからも大いに役立つだろう。
後進の指導、野球の異文化交流、地域密着活動。彼の分厚いキャリアSTATSが、モノを言うのは、これからなのかもしれない。

 
 今の正田樹のホームグランド、松山坊っちゃんスタジアム



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